2010/05/25

2010.5.21 結核病学会(京都)に参加してきました。

結核の分子疫学の口演セッションの座長をしてきました。学会では時間が押してしまうことが多いですが、それなりに質疑も出たわりに時間もぴったりで終了でき、ほっとしました。

内容はというと、遺伝子タイピングの演題が4題続くセッションでした。結核はヒト=ヒト感染しか起こらないこと、感染しても発症するのは1割程度に過ぎないこと、発症までの潜伏期間は数ヶ月~数十年と幅が大きいこと、がわかっています。タイピングからは、どのような研究でも限られた数の株しか検討できないことから受ける制限のもとに、これらから想定される事象が実際に起こっているということが確認された、という以上の知見はどこにもないというのが正直な印象です。

多数株を含むないし他地域にまたがるクラスターの存在はもともと当然想定されることです。たとえると、インフルエンザで学級閉鎖が相次ぐほど多数がやられた学校が京都にあったことと家族が複数やられた家庭が京都と東京にあったことが発見された、と言っているのと同じことだからです。それが細菌学的要因によるものか社会的要因によるものかはわからないが菌の特性を示している可能性があるから今後も続けていきたい、という結びもよく考えると理解しがたいところです。学級閉鎖多発にいたったインフルエンザ株は変異によって感染性が高くなった株だと言えるのでしょうか?可能性はあるでしょうが、普通の感覚ではそうとは言えない、あるいは株のタイピングからはそれはわからないでしょうね。解析株数が増えていくことで結果がどう質的に変わると予測しているのか、人の行き交う現代社会で社会的要因はどこまで掘り下げることができて、どこまですることにその労に見合うだけの効果があるか、という本質的な議論を少しでもしたかったのですが、それができなかったのは少し残念でした。会場外で演者のお一人と突っ込んだ議論ができたのはよかったですが。

結核に限らず様々な病原体で遺伝子タイピングがなされています。タイピングで今までは推定だけで見えなかったことが具体的に見えるようになるということは知的にエキサイティングではあるでしょうが、我々医療者はタイピングの結果でどのようにその感染症への対峙の仕方が変わるのか、そう変えることがその感染症への医療を本当によくするものなのかをもっと追求し、その上でタイピングの意義がどこにあるのかを問い直していかねばならないのだと思います。