2010/06/22

2010.6.12 内科学会近畿地方会で座長を、6.19細菌タイピング研究会で発表をしました。

6.12は大学で内科学会近畿地方会の感染症2のセッションの座長をしてきました。このセッションは興味深い症例報告が続きました。

MSMの人のSTDの例はとても興味深い症例で、自分達の部署で昼のセミナーで輪読しているNew England Journal of MedicineのMGH case conferenceにて最近取り上げられていた症例と偶然にも全く同じ診断でした。鑑別診断にこれが挙がるかどうかは何よりイマジネーションが必要なんだろうなと思う反面、当然の知識としてもっておくことこそが必要ということかとも思いました。イマジネーションのない人だと知識が身につきにくいといったところがオチとして妥当なラインかもしれませんね。

前のセッション(感染症1)から聞いていたのですが、仕事柄からか抗菌薬の使い方がとても気になり、口を挟まざるを得ない気持ちになって質問として指摘してしまったような演題もありました。でも演者の方はよく判っていない表情で、正しい診断を意識せずに治療しているために良くなったケースでも何がどうよかったから改善したのかを理解できていないようでした。言ってよかったのか焼け石に水だったのか結局わからず、もやもやが残ってしまいました。

私の座長は35分くらい遅れて始まりました。係の人に「30分以上遅れていますので御配慮の程お願いします」とのメモ紙をもらい座長席に付きましたが、まったくもって何を配慮したらいいのやらって感じです。口演6分、質疑応答2分で7演題。1題あたり1分短く終わっても7分しか早く終わりません。口演を5分30秒より早く終わる演者はまずいません(むしろ半数以上が6分を越える)し、1分短縮も現実的にはムリ。結局巻きながら予定時間通りに終わるのが精一杯でした。係の人のメモも「これ以上遅らせないでください」という意味なんでしょうね。そりゃわかってるけど。でもこれくらい遅れるのは必然ですわな。プログラムは1題6+2の8分で終わり、演題間はもちろんセッション間にも1分の時間もとってないんだから。乗り換え時間ない旅程立ててるようなものです。今はPCでのプレゼンばかりになり、枚数制限がありません。それも口演時間がいたずらに長くなりやすくなる傾向に拍車をかけているのかもしれません。

もし私がプログラムを立てられる立場になったなら、.
1. 症例報告的な演題のセッションは最短3分/題まで短縮する.
2. その一方、質疑応答は最低3分はとる.
3. 質問者はあらかじめマイクの前に出てくるように促す.
4. セッション間に5分程度は余裕をつくる.
という形にしたいと思います。なんか政権公約みたいですけど。

もしかしたら1が抵抗をもたれるところかもしれませんが、私は症例カンファにしろ口演にしろ、伝えたいことを伝えるという目的を達成するために、30分と言われたら30分、5分なら5分、1分なら1分で話せるように優先順位やポイントを整理しておこう、と人にも言いますし自分でもそう思っています。自分の講演はどうやねんと指摘されると冷や汗ですが、少なくとも次が控えているときは最低限のノルマと思って、そこはなんとか守っています。


6.19は大阪で第2回細菌タイピング研究会。前日の東京出張から新幹線で直接会場ホテルへ向かいました。

私は京都のVREについて話しました。結核病学会の感想でも書きましたが、最近、タイピングの真の意義はどこにあるのかという根源的な点が考えれば考えるほど解らなくなります。接触感染、院内感染予防策の不十分さによって拡がるという20年は前から証明されていることをあの手この手で再証明しているだけではないかと思うからです。想定外の感染経路が発覚するかもしれない、その時にその証明手段になりうるというのはわかります。でもそのような経路を仮定するのはタイピングからか?と思いますし、そのようなおそらく稀なときのために常時からタイピングをすべきなのかも疑問に思います。我々は感染経路も対策手段ももうすでに知っているからです。タイピングの結果を見てやっぱり院内伝播だったか、接触感染だったか、器材消毒不徹底だったか、といった想定内の現象を目の当たりにし、あたかも"腑に落ちる"こと自体が目的になっていないかと不思議に感じます。必要なことは如何にすればその対策のレベルが向上するかであり、そこにタイピングが不可欠であるという真の理由がどこにあるのかわからずにあれこれ考えを巡らせています。知っている対策手段を厳重にとってみてもなお感染伝播が収まらない時に想定外の経路を仮定しなければならない、そのような場合にそれを検証するための手段にタイピングがある、しかしそれ以上にはないのではないかということが今の私の考えです。仮定そのものがタイピング結果から生まれる期待はゼロではないにせよ極めて低いでしょうし。

というようなことを講演をしていた会社のプロマネの方につたない英語で議論をふっかけたまではよかったのですが、真意を十分に伝えられずに大いに苦労してしまいました。先方はタイピングが有用であった事例を2,3挙げて説得しようとしてきましたが、ひとつでもあるから有用というのはロジカルではありませんね。しかし米国では科学的とは思えないほどの合理主義に基づいた方針でタイピングが必要な状況になっているようではあります。オランダでは国家としての対策強化を追求した探索研究として実施しているようでもあります。これらは私の疑問に思っていることの答えではありませんが、しかし、米国でよく行われるように、手をこまねいて進まないよりは思い切って割り切って突き進んでみて問題点を改めて探すというやり方も確かにありかもしれないなと、プロカルシトニンの時に感じたようなことをふと思いました。また、"腑に落ちる"こと自体が実は対策にとってとても大きなことかもしれないという気もすることはします。そこまで割り切れればまた話は別です。しかし、目的がそこにあるなら本当にそれが効果的であるかをやはり科学的に検証するのが真っ当な方向性だろうと思っています。