2011/10/23

2011.10.20 とある大阪の病院の院内講習会で話してきました

順番は飛びますが、最近のものも記憶が新たなうちに。

夏のセミナーを受講していただいた、市立枚方市民病院の先生から院内講習会での講師依頼を受け、そのセミナーでの「どこから何する?感染症~診断のマストと基本的な考え方~」を話してきました。

診断・治療の不足という穴は身近なところにたくさん開いていて、それは埋めることができるということ、診断・治療の不足は予防の不足につながり、予防の不足が診断・治療の不足を生じやすくしてしまう、といういつものテーマです。依頼を受けたとき、とくに医師に聞かせたいとのことでしたので、症例呈示を追加し、診療の現場に近い話になるよう心がけました。

聞いていただいた事務系の方から「病気や菌、薬の名前はもちろんわかりませんが、先生の言いたいことは事務の私にもよくわかりました。」とのお言葉をもらいました。こんなこと言われると嬉しくなるものです。

終了後の食事会には研修医がたくさん参加してくれました。私の、診断・判定の軸を多く持とうというメッセージに対し、「総合的な判断って結局"主観"ってことじゃないですか?」とおずおずと尋ねてきた研修医がいました。医師として咀嚼していなかければならない医療というもののもつ不確実性と、それ対していつまでも抱いていかなければならない不安というものが凝縮された、いい質問だなと思いました。彼が現場で慌ただしくもまれながら、身につけねばならない知識の多さに圧倒されながらも、(意識しているかはわかりませんが)医療というものに正面からぶつかっているということの現れなのでしょう。

食事量が3/10という客観的指標は、"3割くらい食べた"と患者本人あるいは下膳する看護師が記録用紙に記入した、という事実しか示しません。でもそのような曖昧な指標ならない方がいいかというとそんなことはないわけです。客観性とは医療が永遠に追求し続けるべきものですが、永遠に到達もできないもの、少なくとも到達できないのだろうと思い続けるべきものではないかと思います。

こういうの何か隠喩がなかったかなと考えているのですが思い出せません。シュレーディンガーの猫…マックスウェルの悪魔…単に不確定性原理かな?何か(全然?)違う気もしますが確かめても味気ないのでこのままに。頭の片隅においていればいつかどこかでこれだ!と視界がぱあっと明るくなるような時がくることでしょうし。